社長ブログ
一人で家が建てられる大工さん!、耐震性が見極められる大工さん!、頑固を貫く大工さん!。

それが私の夢でした。
家業を継ぐ。
それは僕にとっては当たり前の事でした。 良くても悪く、当たり前でした。
祖父も父も大工をしていましたのでそれを見て育ちました。 家には材木もあるし道具もありました。 当時超高級な造作鋸でベニヤ板を切って、歯をぼろぼろにしてもさほど叱られませんでした。 孫は可愛かったのだと今思います。
ですので机を作ったり本箱を作ったり、そのうちステレオのラック・スピーカーBOXなどを作ったりと大変忙しい小中学生でした。(勉強そっちのけ)
小学校4年生では近所のおじさん(お兄さん)がラジオを手作りされていましたので、それを弟と同級生のしゅんちゃんとじっと見ていました。 ある時近くの「ごみ捨て場」からラジオやテレビの壊れたのを持ち帰り部品を取り、「初歩のラジオ」の本を見ながら作り始めました。 足らないものは松江の山崎電機に電車で買いに行きました。
当時は、真空管→真空管ダイオード→IC(初期の集積回路)→LSI→超LSI→コンピューターと時代は移って行き、その後は目覚ましい発展でついていけませんでした。
ですがそれが効してか、現代のコンピューター時代に入ってもなんの不自由もありませんでした。
電気図面も読めるし、機械の理屈はわかっているし、電気屋になりたいなとも思いました。
その後高校の建築科に進みました。 物理や数学や専門教科はかなりいい成績でした。
卒業後は家業に付きましたが、なぜか京都で数寄屋建築に出会い、細く軽く繊細な「わび錆」の建物作りを学びました。
自然石と柱を組み合わせたり、お茶室の作業裏を見たり、今思えば本物の建築に触れることができました。
それが僕の礎にあり、勝手に「家づくりのシンガーソングライター」と言って、「営業、設計、施工(大工さん)」まで一人でするようになりました。 バブル崩壊やリーマンショックがありましたが何とか乗り超えて来たのが不思議なぐらいです。
なぜか一番ショックだった事は、アメリカのニューヨーク・マンハッタンの世界貿易センターにジャンボジェット機が突っ込んだ時でした。あれを見たとき世界が終わったなと思い、仕事も終わりが来ると思い、少し臥せっていました。
それにも負けず「高気密高断熱」スーパーウオール工法住宅に没頭し、水を得た魚のごとく突っ走りました。
あわせて、神社仏閣も近回りの建物は手掛ける事が出来たので、景気の良し悪しに関わらず仕事がこなせました。
そんな人生でしたが、大変楽しく天職だったように思います。
もう少し体力の続く限り、楽しみながら仕事したいと思いますので、ご用命たわまりますようにお願い申し上げます。
↓【初代、高気密高断熱住宅1996年】(弊社物件)

↓【古い家から移設した「大黒柱」のある高気密高断熱住宅2011年】

完成したら直ぐに親戚のおじさんが見に来られました。 その瞬間「家の歴史」がつながったようでした。
↓【和室のある高気密高断熱住宅2011年】

↓【平屋の、高気密高断熱住宅2019年】



↓【神社の新築2006年】

神社仏閣は神様や仏さまがお住まいになり、暖房や冷房をされないので結露が無く、家が腐りにくいのです。
ただし、雨漏りがすると当然朽ちていきますので、それだけは注意しましょう。
日本の家は、家全体を暖房するようになってから歴史が浅いので、無暖房の家が多いです。
生活を「人が家に合わせる」時代から、「家を人に合わせる」時代になって約30年。
現在は、エネルギ消費まで考えた家づくりなっていますの、お気軽にご相談ください。
もちろんデザインも耐震性も大事です。
よろしくお願いします。