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お知らせ

我が家は200円!

父や叔父から聞きました。

父は昭和5年生まれです。 ですので家が建ったのは昭和の初め、100年前です。 父からは朝起きると布団の上に粉雪が積もっていたそうです。

それほど隙間だらけの家だったんです。 畳の座板も薄く、畳をはぐると板が折れそうで歩けませんでした。

当時建てたのは祖父です。 祖父の父親(曾祖父)は26歳で死に、祖父は0歳でした。 それでも持田家は繋がったのです。 祖父は中学を出ると大工になり、賃金はコメで支払われたそうです。 一日働いて日当が現金でなく米一升だったそうです。 その代わり朝飯の前にその家に行き、道具を手入れしたり、材料の準備をして、「大工さん朝ごはんですよ」と呼ばれるまで研ぎ物(鉋を研ぎ鋸の目立て)をしていたそうです。

夜も、夕ご飯が出るまで仕事をして、めしが終わったら歩いて帰ったそうです。 電気が無い時代ですので暗くなったら「おしまい」だたと思います。

父も大工でしたが、同じようなことを言っていました。 その「朝ごはん」も「戦争」が始まると「団子汁」だけで、家の人に「お変わりはどうですか」と言われても、食いたくなかったのか「もう結構です」と言ったそうです。 昭和40年代入っても、団子汁だけは「いらない、食いたくない」と言っていました。

その父は、京都で仕事をしているとき、弟子の若い者同士競争させられ、板を削るのに数人に同じ仕事をさせられ、手鉋で杉板を何枚仕上げたかが競わされるので、物凄く嫌だったと言っていました。 そんな父も死ぬまで京都に車で遊びに行って、その時代の同僚に会いに行っていましたが、 福知山で交通事故をして川に転落するまでは。

今月、父が亡くなって15年が来ました。 毎年ですが「梅が咲く」頃になると思い出します。 父は大工しかしませんでしたが、弟子は20人は超えていると思います。 そのお弟子さんが70歳近くになり、引退し始めています。 どの仕事でも職人がいないと言われますが、弟子を育てるのに没頭していた父やその時代がうらやましいです。

現代は先が見通せないので、人(職人)が育てられないのです。 なぜなら一人前にするのには10年の時間が必要だからです。 もっと大樂かで余裕のある世の中になって欲しいと思います。 命日の26日を前に!。

↓【父が最後の棟梁】物件

一緒にした最後の建物です。

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